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[広島建築遺産] アートフリーペーパー「Hiroshima EXsite」連載記事(2011年10月〜)より
2011年度連載 [ 01 京橋会館02 矢野南小学校03 基町高層アパート04 スターハウス05 旧陸軍被服支廠06 旧日銀広島支店 ]
2012年度連載 [ 07 ソットスタッティオーネ08 純喫茶パール09 安佐南区スポーツセンター10 谷口織物11 広電廿日市駅12 旧下士卒集会所 ]
2013年度連載 [ 13 江波山気象館14 広島医師会館15 古江修道院16 厳島神社宝物館17 山陽文徳殿18 旧広島県港湾事務所 ]
2014年度連載 [ 19 広島アンデルセン20 牛田浄水場21 旧陸軍被服支廠(2)22 聖ヨハネ修道院23 三瀧荘24 原爆ドーム ]
2016年度連載 [ 25 広島県庁舎26 旧広島高校講堂27 マツダスタジアム28 袋町小29 レストハウス30 世界平和記念聖堂 ]
2017年度連載 [ 31 広島逓信病院旧外来棟32 広電千田町変電所33 新白島駅34 平和アパート35 おりづるタワー36 環境局中工場 ]
ご注意!
  • 一部については非公開箇所を紹介していますが、公開について管理者に問い合わせることはおやめください。
  • 現役の住宅を見学する際には、住民の方々のプライバシーに十分配慮し、外観であっても不用意にカメラを向けないようにご注意ください。
  • 記載内容は執筆者の推測や個人的な感想を含みます。
36 広島市環境局中工場
広島市中区|2004年|谷口吉生

吉島通りを海に向かって進むと、その先端に巨大な箱があらわれる。これは広島市のゴミ処理場で、建築家谷口吉生が設計を担った。外観はあえて工場らしい形にして存在をアピールしつつ、内部に建物を貫く見学者向けガラス通路を設けている。このガラス通路はとてもスタイリッシュで、通路から眺める設備機器がアート作品に見えてくる。美術館設計を得意とする谷口の本領発揮というべき空間に仕上がっており、ゴミに対するネガティブなイメージが見事に払しょくされている。さらに通路を進むと先端の展望テラスから河口や海を見渡せ、ゴミというものが都市と自然の境界線上にあるのだと実感できる。

この建物は吉島通りによって平和記念公園と結ばれている。谷口は師匠である丹下健三(平和記念公園の設計で広島に都市軸を作り出した)を意識し、都市軸を建築に取り込む意図を込めて、ガラス通路を吉島通りの延長線上に置いた。立地の読み解きから来る明快な配置計画があり、細部の作り込みも徹底され、広島の特徴であるモダニズム建築の文化を受け継ぐ屈指の建築作品となっている。「世界一美しいゴミ処理場」と言ってもいいかもしれない。

駐車場完備でバス路線もあるので、まだ行ったことのない人はぜひ訪問してみてほしい。ガラス通路だけなら常時見学できるが(※)、できれば予約して工場内部も見学することをすすめる。空間デザインの力を感じることができるだろう。

※夜間は閉鎖されている。予約先は市のホームページを参照。
35 おりづるタワー
広島市中区|2016年|三分一博志(改修)

原爆ドームのすぐ背後に建つオフィスビル。もとは1978年に建てられた、いわゆる旧耐震基準の建物だったが、建て替えると景観規制の影響で床面積が減ってしまう。そこで壊さずに改修することになり、耐震補強を兼ねて東西にバルコニーや階段を増築、外壁は作り直し、さらに屋上を展望台として一般公開すべく大屋根が追加された。

ひろしまの丘と命名された屋上の展望台からは平和記念公園を一望でき、高所かつ屋外なので広島ならではの風の変化を体感することもできる。また、ヒノキ材で覆われた床はゆるく傾斜しており、空間に変化をつけ景色を見やすくするとともに風を感じやすくしている。屋上の下階には折り鶴をテーマにした体験ゾーンやギャラリー、1階には物産店やカフェが配された。オフィスフロアは非公開だが、ワーカー向けのバルコニーや自然換気へのこだわりなど、普通のオフィスにはない個性を持つ。

屋上は風を感じながら景色を眺めるという機能に純化され、そこにデザインが応えてレベルの高い空間が成立し、実際に多くの人がたたずんでいる。これまでの広島にはなかった空間体験をもたらしている。また、建物を壊さなくても改修でここまでできると全国に範を示した意義も大きい。ビルの効率が低下したとしても屋上を一般公開する、原爆ドームの横という立地にふさわしい機能を入れると決めたオーナーの見識こそがこの場を形作ったと言ってよいだろう。

※屋上は有料にて一般公開
34 市営平和アパート
広島市中区|1949年|建設省

広島を訪れる旅行者は「ここまで復興したことに感動する」という。では広島は焼け野原から突然いまの姿に復興したのかというと、そんなはずはない。再起不能とも思われた絶望的な状況から復興への熱い議論が交わされ(その中には若き丹下健三もいた)、町場との軋轢を抱えながらも旧市街全域にわたる区画整理が行われ、徐々に今の姿になっていった。復興にかけた先人たちの労苦は決して忘れてはいけないと思う。

京橋川沿いに建つ市営平和アパート1号棟は、1949年完成の4階建て住宅。日々を生きることに精一杯で復興どころではなく、平和公園もまだない当時にあって、突如出現した復興建築第1号というべきその姿は多くの市民に希望を与えたことだろう。設計図は国から提供されたが、技術者の多くが被爆死していた広島では、建てること自体が大変なことだった。

本作は日本の戦後コンクリート集合住宅で現存するおそらく最古の建物で、その間取りは現代のマンションとは違う過渡期的なもの(食事室と寝室が未分離など)で建築史上も貴重といえ、昨年11月の「たてものがたりフェスタ」で特別公開された(※)際には多くの見学者を集めていた。

いま、戦後第一世代の建物が続々と解体されつつあるが、被爆建物と違って話題にもならない。この街の成り立ちを知り、行く先を想うには、各時代の重要な建物を残すことが欠かせないのに、議論が追いついていないのは何とももどかしい。



※公開されたのは1950年竣工の3号棟(内部写真も3号棟)。普段はいずれも非公開。
33 アストラムライン新白島駅
広島市中区|2015年|CAt(小嶋一浩+赤松佳珠子)

駅は多くの人が日常的に使う重要な施設だ。なのになぜか日本の駅舎は貧相なものが多い。そんな中で、きちんとコンペで建築家を選びユニークな形を実現させたアストラムライン新白島駅は異色の存在だ。

建築家は空間デザインは得意だが、トンネルや高架橋の設計はできないし、鉄道関係の法規や構造にも明るくない。かといって土木技術者に全部任せると野暮な仕上がりになってしまう。つまり良い駅舎を作るには建築と土木の連携が欠かせない。本作では土木スケールの構造物から人が触れるディテールまで丁寧にデザインされており、協業はうまくいったようだ。

施設の構成はシンプルで、道路の中央分離帯に穴を掘ってホームを作り、放物線を描いた鋼板の大屋根を載せている。屋根には大小の丸窓が開けられ、外光を取り込むとともに独特な外観を形作る。地下駅だが天井は高く、しかも天井・壁とも白く塗られ、閉鎖的な印象はない。夜景もなかなか魅力的だ。アストラムラインのデザインは新交通システムとして日本一だと思うが、本作によってさらにレベルが上がったのは誇らしいことだ。

残念なところもある。実は当初案では大屋根が山陽線の手前まで伸びる予定だったのだが、コストなどの事情により途中で切れてしまった。その結果、歩道橋下の空間はパブリックスペースとは呼べない単なる通路になってしまい、造形としても不自然だ。いつの日か当初案に戻せないだろうかと思う。
32 広島電鉄千田町変電所(旧広島電気軌道火力発電所)
広島市中区|1912年|設計者不詳

レンガ造の建物はいかにも歴史がありそうに見える。日本では1923年の関東大震災以降はレンガが使われなくなったから、現存するレンガ造建築は震災前のものといえる。そして広島の中心部で唯一となったレンガ造建築がこの変電所だ。普段は非公開だが路面電車祭りの際には内観できる。

この建物は路面電車用の発電所として建てられたもので、南が事務所棟(旧ボイラー室)で北が変電所棟(旧発電機室)。目前にはかつて平田屋川という運河があり、燃料を船で運んでいた。被爆時には室内を焼失したが倒壊は免れ、応急措置を受けて再稼働した。1958年には損傷したレンガ壁をコンクリート壁に変えるなどの補修工事を受けている。

事務所棟はレンガらしい外観が残るが室内に昔のものは少ない。レンガはイギリス積みで、窓まわりは石造、コーニスは人造石のようだ。変電所棟は改修工事で外観が変化したが、入口は大アーチに擬宝珠が付くなど装飾性が高く、今なお電気設備があるために半地下の構造が残り、見上げれば小屋組の鉄トラスも見える。床に使われている石材も当時のものなのか、味わいがあって印象的だった。

前述のとおり、この建物はとても貴重なレンガ造建築なのだが、文化財指定などの保護や支援を受けていない。広島の発展や復興を支えた路面電車の歴史を語るシンボルでもあり、行政や市民が支えてでも次世代に受け継ぐべき価値のある建物ではないだろうか。
31 広島逓信病院旧外来棟
広島市中区|1935年|山田守

広島の建物を特徴づけているモダニズム建築。その多くは戦後の復興期のものだが、少数ながら戦前に建てられたものもある。その現存する代表例が逓信病院旧外来棟だ。逓信省に属した建築家山田守による設計で、山田が海外視察で本場のモダニズムに触れた直後の作品とされる。文化財ではないが、日本におけるモダン・ムーブメントの建築として専門機関が認定している。

既にオリジナルは半分くらい解体されており、保存され見学できる(※)のはごく一部だが、合理的な諸室配置、装飾のないシンプルな外観、水平連続窓など、モダニズム建築の特徴を備えている。特に手術室の大きな出窓(現代ではありえないが)はデザイン上のアクセントになっている。和風建築が大半だった当時の広島では斬新でモダンな印象を与える建物だったことだろう。

こういったシンプルなモダニズム建築は、現代の私たちから見ると「ただのビル」に見えるかもしれない。だが、よくよく見てみると、角を丸めて柔らかさを表現する、窓枠を極細にして開口部のシンプルさを追求するなど、ただのビルより手の込んだ「作品」であると気づく。病室の窓が上げ下げ式なのも現代とは違う特徴だ。さらに窓枠(一部)や室内のタイルなどのディテールが残っている被爆建物という点でも貴重で、小さいながらもじっくり鑑賞したくなる建物といえる。

【注意】見学する際には、病院が開いている時間帯に受付に申し出ること。
30 世界平和記念聖堂
広島市中区|1954年|村野藤吾

戦後の日本建築は広島から始まった。なにしろ戦後の建物として初めて国の重要文化財になったのは、広島の世界平和記念聖堂(聖堂)と平和記念資料館(資料館)の2作品なのだ。資料館が都市を志向する大建築なのに対し、造形の安定感やじっくり見たくなる細部の魅力という点では聖堂に軍配が上がる。資料館を設計した丹下健三は当初からモダニズム一辺倒だったが、聖堂を手がけた村野藤吾は様式建築を叩き込まれた最後の世代であり、それが両作品の違いにつながっている。

この聖堂は、戦災で失われた旧幟町教会を再建したもので、被爆者でもあるドイツ人神父を中心に全世界からの支援で建立された。外観を見ると、遠景では本堂と塔が並ぶプロポーションの美しさ、近景では現場製作レンガや粗い仕上げの目地がもたらす陰影の豊かさに惹かれる。そこに扉やステンドグラス、パイプオルガン、鐘など各国からの寄贈品が彩りを添え、壁に開けられた窓の形は実に多様で装飾的だ。さらに、外構の太鼓橋、ポーチの格天井や欄間、屋根の鳳凰など、和風を思わせるデザインを探すのも楽しい。

広島を特徴づけるモダニズム建築群の中にあって、近代以前の建築が持っていた装飾性や"手づくり感"を高いレベルで受け継いでいる作品はこれが唯一といっていい。まさに広島を代表する大傑作だ。

【注意】訪問は祈りの場にふさわしい服装で、ミサ等のじゃまにならないよう配慮する。撮影は要許可。
29 平和記念公園レストハウス(旧大正屋呉服店)
広島市中区|1929年|増田清

江戸時代の広島の繁華街は中島町あたりだった。西国街道の元安橋・本川橋の周辺が船からの荷揚げ場だったためで、舟運は徐々に衰退するも、戦災で消滅するまではにぎやかな商店街が広がっていた。その面影をとどめる唯一の建物がレストハウスだ。昭和初期に建てられたハイカラな呉服店だったが、戦時の物資統制が厳しくなると閉鎖され、被爆時は燃料配給の事務所となっていた。コンクリート造だったため全焼しつつも外壁は残り、その姿を今に残している。

設計を担ったのは大阪を拠点に活動した建築家増田清。外観の装飾性は低いが、縦長窓や縦リブで様式建築に通じる垂直性が強調されている。一方で、隅を丸める彫塑的な表現もあり、全体的には分離派や表現主義の影響を感じさせる。1階だけにアーチを使うのは同じく増田がデザインした本川小学校旧校舎(一部を残して解体)と共通する。さらに、徹底した時代考証で知られるアニメ映画「この世界の片隅に」を見ると、現在と異なり外装タイルは茶色で、1階の街道側3スパンに大きなショーウィンドウがあったようだ。なお、地下室は被爆時のまま保存されており、受付に申し出れば見学できる。地下の柱の一部にレンガが使われているのは意外だった。

一時は解体も噂されたが、広島市は耐震補強などの改修を行うようだ。ぜひ失われたヒサシや窓枠、タイルなど外観も修復されると本来の輝きを取り戻せるように思う。
28 袋町小学校平和資料館
広島市中区|1937年|広島市営繕課

建物を見るポイントの一つに窓がある。戦前期の大建築である旧日銀広島支店、福屋、旧産業奨励館(原爆ドーム)の窓は縦に長いが、これらは縦長窓を基調とする西欧の様式の影響だろう。一方、モダニズム建築の旗手である建築家ル・コルビュジェは、技術の発達で横長窓(水平連続窓)が可能になると「サヴォア邸」などで採用し、日本の建築家たちも後に続いた。こうして平和記念資料館や広島県庁など戦後復興期のモダニズム建築は横長の窓を強調している。

では戦前期の建物に横長窓を持つモダニズム建築がないかというと、実はある。現存する中でもっとも分かりやすいのは袋町小学校だろう。校舎の大半は解体されたが一部が平和資料館として保存され見学できる。外観を見ると、他の被爆建物とは異なり、居室の横長の窓と階段室の大きな縦長の窓が印象的で、窓には水平・垂直を強調するリブが入っている。室内もシンプルなつくりだが、階段室での端部を丸める処理などは柔らかい印象を与える。水洗トイレやダストシュートなど設備面も充実していたという。1930年代当時の最先端だったモダニズムを理解したデザインであることは間違いなく、当時の市役所の高い設計能力をうかがわせる。

室内は被爆直後の状況を伝える方針で保存修復され、炭化した木レンガを間近に見られるなど、きれいに修復された他の被爆建物にはない重要な役割を担っている。
27 マツダスタジアム(広島市民球場)
広島市南区|2009年|環境デザイン研究所

2016年の広島で最大の話題はやはりカープの優勝だろう。そしてカープが強くなった一因がマツダスタジアムにあったこともまちがいない。もし旧球場のままだったら、球団収入が倍増することもカープ女子が出現することもなかったはずだ。

思い返してみると、球場の建設は決してスムーズに進んだわけではなく、設計も二転三転した。だが、高コストで中途半端にしか使えないドーム球場をやめたのは正解で、青空の下で野球を楽しむという明確な目標に向かって集中してデザインでき、コストも削減された。球団という「使い手」に最適化された設計こそが日本一楽しい球場を生み出したといっていいだろう。

建築としてのポイントは、動線・コミュニケーション・拡張性にある。内外野を一周できる幅広の通路は観客に自由な回遊をもたらす動線計画だ。また、選手と観客がハイタッチできる距離の近さだけでなく、正対して配されたパフォーマンスシートや、近くを走る新幹線の乗客と観客といった、多様なコミュニケーションが意識されている。さらに拡張性も大切なポイントだ。スペースに余裕を持たせることで、新しいシートができたり、遊具が増えたり、お店が変わったりといった変化に対応できる設計は商業施設のデザインに通じるものがある。

身の丈に合ったハコモノを公民連携の下で使い倒し、地域でお金を回すことで、チームやファンと共にスタジアムも成長していく。将来どう育つかも楽しみだ。
26 広島大学附属中高等学校講堂(旧広島高校講堂)
広島市南区|1927年|文部省

広島に残る被爆建物の中でも、内装を含めて往時の姿をとどめつつ現役で使われている希少な建物の一つが広大附属の講堂だ。旧制広島高校講堂として建てられ、後に平和記念資料館を設計する建築家丹下健三もここで入学式を迎えたはずである。

まず外観から。無装飾のモダニズム建築が普及しつつあった昭和初期なのでゴテゴテした装飾はないが、学舎にふさわしい風格を求めたのか、欧州の様式建築のように外壁に沿って列柱を付けている。この柱は2層ぶちぬきのジャイアントオーダーで、柱の上、様式建築のアーキトレーブに相当する箇所には装飾されたタイルが並び、彩りを添えている。さらに外壁は全体的に洗出し仕上げで、石造りのように見せている。

室内もかなりおもしろい。こちらの列柱は円形で中央部が膨らむエンタシスとなっており、外観よりもさらにギリシャ神殿っぽい印象を受ける。2階席の張出しと様式建築由来の造形ともうまく共存しているし、玄関扉まわりの装飾やエントランスのモザイク装飾(2587とは建設年を皇紀で記したもの)も見ていて楽しい。当初あったはずの天井装飾が失われているのは残念だが、それでも各所に漆喰を用いた装飾が残っている。

こういった細部を鑑賞する楽しみのある被爆建物は残りわずかとなり、その希少性は増すばかりだ。ぜひ学校のシンボル・地域の宝物として大切に使い続けられることを願いたい。

【注意】普段は非公開です。
25 広島県庁舎
広島市中区|1956年|日建設計

今年、モダニズム建築の旗手である建築家ル・コルビュジェの作品群が世界遺産となった。だが、モダニズムは寺社仏閣やレンガ建築のような、いかにも文化財らしい形ではないためか、良さが認識されないことも多い。広島県庁舎はその典型で、著名な建築家など「見る目」のある人は絶賛するが、ただの古いビルにしか見えない人も多いだろう。

焼野原から出発した戦後民主主義を担う庁舎建築は、それまでの重厚な城館のような建物ではなく、明るく開放的で市民が気軽に立ち寄れる設えが求められ、ル・コルビュジェや丹下健三に影響されたモダニズムが好まれた。この県庁も同様で、ピロティこそ中途半端だが、機能に忠実な平面計画、庭園の緑と一体化するエントランス、横長の窓、そして屋上庭園を備えており、細部も破綻なくまとめられている。砂地なのに杭を打たず、建物が沈下する前提で設計されているのも興味深い。さらに細部を見ると、その保存状態に目が釘付けになる。窓枠は今も鉄製で、内部のドアは木製のものが現存し、現場の資材で作ったというレリーフも当時のまま。建築家が意図した当時のモダニズムの美がタイムカプセルのように保存されており、文化財なみの価値ある建築といえる。

県はこの建物を当面使い続けると決めている。窓や水回りなど現代のニーズに合わないところは改修し、外装をきれいに塗り直してやれば、きっとすばらしい輝きを放つことだろう。
24 原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)
広島市中区|1915年|ヤン・レツル|外観のみ見学可|関連ページ

言うまでもなく被爆地広島を象徴する建造物であり、ユネスコ世界遺産。だが、多くの人にとって、見ているようで見ていない建物ともいえる。

本作は日清戦争後の県内産業振興のため県が建設した。うねる外壁や楕円ドームはネオ・バロック風で、幾何学的な装飾はセセッション風。設計した建築家ヤン・レツルは、セセッション発祥の地であるウイーンに近いプラハで建築を学んでおり、その本場仕込みのデザインを広島に持ち込んでみせた。ぜひ本作のエントランスをじっくり観察してほしい。旧日銀のような様式建築とは違う前衛的な装飾が欧州直輸入の貴重なものと知ると、見えかたも変わってくるだろう。さらに、よく見るとこの建物は川のラインに沿って全体がカーブしている。川側にファサードを展開して河川景観を整えようという設計思想は、川の町らしさの表現として現代の我々もぜひ見習うべきだ。

さて、実は被爆建物という分類は個人的にあまり好きではない。レツルも最初から廃墟を設計したのではないから、建築としても評価してよとあの世で願っているような気がする。それに、もし被爆していなければ今ごろ解体か保存かでもめているかもしれない。そんなことを考えると、良い建築は被爆建物だろうと戦後モノだろうと残していくことの意義を、建築や街を見る目を持つことの大切さを、もっとアピールせんとなぁと、あらためて思う。
23 三瀧荘
広島市西区|昭和初期|不詳
日本建築の華、それは木造の名品だ。日本の木造建築は、20世紀前半に絶頂期を迎えた以降は衰退し続けていて、当時の職人たちの緻密な細工の多くは現代では再現不可能という。東京で暮らしていると、そんなすばらしい木造建築が、減ったとはいえいくつも残されていることに気づく。一方で広島の中心部にあったはずの木造の名品は、被爆によりその全てを失っている。そこに、空襲を受けつつも「焼け残り」が生じた東京とは違う、広島の戦災の特殊性を見ることができる。

そんな広島にかろうじて残された戦前期の木造の中でも名品といえるのが三瀧荘だ。邸宅として建てられ、増築されながら料亭旅館に転じ、現在は結婚式場・レストランとなっている。洋館付きの主屋は、むくり屋根に銅板貼りの懸魚(げぎょ)が印象的で、内部は網代(あじろ)天井など数寄屋(すきや)のエレメントで飾り立てられている。戦後の増築部分は主屋とはスケールが異なるものの、同じく数寄屋であり統一感がある。このクラスの建物は確かに京都あたりにはいくらでもあるのだが、復興モダニズムの存在感が強い広島の地で木造を鑑賞できることに大きな意味があるし、結婚式場への改装時に手が加わったとはいえマンション開発されることなく生き残ってくれて本当に良かったと思う。

客としてなら中に入れるので、たまには豪華ランチがてら建物鑑賞に出かけてみてはいかがだろうか。

【注意】お店の営業の支障とならないよう配慮をお願いします。
22 イエズス会 聖ヨハネ修道院
広島市安佐南区|1938年|不詳
広島の被爆建物の中でもユニークな作品が長束にある。イエズス会という修道会の修道院で、当初は「修練院」といい、神父や修道士になる初期養成を担う施設だった。被爆時の爆風は中心部から離れたこの地にも襲いかかり、本作もガラスが飛び柱が折れたという。当時の院長だったアルペ神父は建物を開放して負傷者の救護にあたり、後に世界平和記念聖堂建立に奔走することになるラサール神父もここで治療を受けている。

本作最大の特徴は、カトリック修道院なのに和風で統一されている点だ。木造の外観はいかにも和風で、入母屋の屋根には和瓦、舟肘木も見える。そして懸魚や仏塔っぽい鐘楼には十字架が付いている。室内の聖堂は書院風で、畳敷きに吹寄せ格天井、内陣には床の間まである。だが、完全に和風というわけでもなく、左右対称で両翼が張り出す建物形状、小屋組のトラス、緩やかな階段などは洋館に由来するし、個室はイスやベッドの生活を前提としている。外国人を意識したか天井も高い。これら特徴から、本作は近代和風建築に分類できると思う。

設計者は不明ながら、イエズス会の施設を一手に担っていたドイツ人修道士の関与が濃厚だ。しかし、外国人にこれほど和風らしい和風ができるかは疑問で、建物の基本形状以外は日本人大工に任せたのではと推測している。

【注意】聖堂は信仰の場として開かれていますが、建物見学のみの訪問はご遠慮ください。
21 旧陸軍被服支廠倉庫(2)
広島市南区|1913年|不詳|非公開|関連ページ

かつての軍都広島のスケールを唯一留める倉庫群。この連載で以前とりあげた建物だが、特別に内部調査を行う機会を得たので改めて紹介したい。

本作でまず重要なのは、国内最古級のRC(鉄筋コンクリート)造という点だ。ただ、外観から分かるように壁はあくまでレンガ造であり、RCは内部の柱と床(3層構造になっている)に使われている。窓やドアなどの開口部は従来通りレンガのアーチで、RCではないようだ。20世紀初頭はRCの技術も発展途上で、耐震性も十分とはいえないが、逆に模索を続けていた時代の様相をよく留めているともいえる。
空間として特に印象深いのは3階の屋根裏。屋根は鉄骨でもいいのにあえてRCで作ってあり、大空間に天窓から差し込む光は神秘的ですらある。この「大空間」というのもポイントで、レンガだけで建てると壁だらけになるところを、RCにより壁のない大きな室内、モダンな空間を実現している。装飾は梁に繰形(くりがた)が若干ある程度で、様式建築からモダニズムに向かう過渡期らしさを感じる。このように、レトロな外壁とモダンな内部をあわせ持つところに本作最大の特徴がある。

本作は現存する貴重な被爆建物であり歴史的価値は高いが、改修や活用の難易度もかなり高い。まずは自分にできること、建築としての真価を解き明かすところから始めてみようと思う。
20 牛田浄水場3号配水井上屋
広島市東区|1924年|不詳|非公開

近代化を急ぐ広島に待望の水道が開通したのは1898年。陸軍が建設した牛田浄水場に市の水道管を接続することで実現した。牛田に残る古い水道施設のうち旧送水ポンプ室は資料館に改装され、誰でも見学できるが、その背後には現役で稼動しているために非公開となっている歴史的な建物もある。そのひとつが今回紹介する配水井上屋(はいすいせいうわや)だ。

ろ過などの処理が終わった上水を一時貯留するため高台に置かれるタンクを配水池といい、本作は配水池から水が送り出される場所にある。鉄筋コンクリート造で石貼りのようだが、窓は縦長で平行アーチが表現され、コーニスにパラペットも付く。コンクリートを使いつつも様式に基づくデザインを指向するのがいかにも大正時代らしい。ごく小規模なものとはいえ、旧日銀やアンデルセン以外に様式建築らしい建物が広島にまだ残っていたとは驚きで、出会えた時は無性に嬉しくなった。

配水池にある施設はこれだけではなく、すぐ近くには1930年代に建てられた表現主義的な柔らかいデザインの上屋もある。これらは広島市が公開している被爆建物リストにも記載がなく、まさに知られざる被爆建築というべき存在だ。非公開なのは現役だからしょうがないとして、思いのほか意匠性も高いので、文化財・被爆建物としての保存や手入れをしてもらえるとよいのだが。
19 広島アンデルセン
広島市中区|1925年|長野宇平治(改修:山下寿郎、大成建設)

いわずと知れた、本通りのシンボル。周囲は安っぽい商業建築でも、この店の前を歩くときだけは凛とした気持ちになる。ローマ以来の悠久の歴史を背景とする様式建築の奥深さがそうさせているのだろう。そして、本通りに残る最後の被爆建築でもある。

この建物は三井銀行として、旧日銀と同じく長野宇平治の設計で建てられた。装飾が少なく左右対称、正円アーチ、矩形(四角形)窓、さらに横ラインがしっかり表現され、ネオ・ルネサンスと判定できる。ただ、被爆による損傷からの復旧に加え、銀行から店舗に変える際にも改造されており、様式建築の華であるファサードの柱やバルコニーは撤去され、ちょっと物足りない外観になってしまった。

この店は日本におけるベーカリー複合店舗の先駆けであり、客が自らケースからパンを取る方式はここが発祥であるなど、ストーリーは豊富だ。広島という地方都市に北欧の生活スタイルを紹介した役割も大きく、館内にはデンマークの名誉領事館となっている部屋もある。

こういった欧州らしい洗練されたブランドイメージは、様式建築だからこそ保たれていると思う(東京青山の支店にこれほどの風格はない)。本作も老朽化による解体話が出ているが、せめて外壁だけでも保存して、本通りの上品で華やかな一面が後世に残ることを願いたい。さらに失われた列柱が復元されるといいのだが、さすがにそれは贅沢だろうか。
18 旧広島県港湾事務所
広島市南区|1909年|不詳|内部は閉鎖されている。掲載した写真は一部現状とは異なる。

高架道路の建設で数々の近代化遺産が消えてしまった宇品に、忘れられたように建っている木造洋館がある。旧広島県港湾事務所といい、宇品港を管轄する水上警察署として建てられ、後に県が事務所として使い、現在は空き家となっている。

本作をひとことで表現すると、以前紹介した江田島の海友舎と同様、明治後半の典型的な洋館といえる。基礎は花崗岩で外壁は下見板張り、窓枠は木製の上げ下げ式。道路側エントランスにはポーチが付き、寄棟屋根中央のペディメントは道路側・海側の両方にある。

洋館と呼ばれる建物は、本作のような明治後期のものが成熟度・純度のバランスが最も良いと思う。明治初期のものは擬洋風といって大工たちが見よう見まねで作ったものが多い(それはそれで面白いのだが)。一方、昭和になると日本建築との融合が進み、西欧そのままの洋館ではなくなっていく。

そういう目で見ると、明治後期の「洋館らしい洋館」は広島デルタではこの建物ただ一つしか残っていないはずだ。その貴重な建物の窓がベニアでふさがれ、朽ち果てていくのは見ていてつらい。県は再利用を考えているようだが、既に痛みが進んでおり(木造建物は住み続けないと急速に老朽化する)、救うには大々的な修理が必要なはずだ。であれば、最近にぎわいが出てきた水辺の倉庫街へ移築してはどうだろう。宇品の歴史を見守ってきた“建築遺産”として輝きを取り戻せると思うのだが。
17 山陽文徳殿
広島市南区|1934年|広島市営繕課|内部は閉鎖されている。

広島でRC(鉄筋コンクリート)の近代和風建築といえば、比治山の山陽文徳殿を外すわけにはいかない。前回紹介した厳島神社宝物館は木造のかたちを忠実にRCに置き換えていたが、本作は違う。RCという新技術を使いつつ、モダニズムではない「和風」をどう表現するか試行錯誤する中で、思いきり抽象化しながらも何となく和だとわかるデザインが試されている。

外観をよく見てみよう。入口の付柱は日本古来の丸柱。屋根は当初瓦ぶきで、頂点には本来お寺の塔に載っているはずの九輪(被爆時の爆風で変形したままだ)。一方、日本建築の特徴であるはずの柱・梁はあまり意識されておらず、窓は西欧的な縦長。壁や軒裏の幾何学的な造形は分離派の影響と思われ、一部は校倉造のようにも見える。閉鎖されていて室内には入れないが、格天井や花頭窓などの和のインテリアが残っているようだ。

少し深い話をすると、この時代のRC和風建築は当時吹き荒れていたナショナリズムと無縁ではない。本作は頼山陽の没後百年を記念するお堂だから和風なのは当然だし、帝冠様式ほど強烈なかたちにはなってないけども、それでもデザイン上の不自然さは残る。建物は時代を映す鏡であり、じっくりと見つめればどんな本よりも雄弁に歴史を語ってくれる。

比治山下電停から現代美術館に上がる道中にちゃんと看板も立っているので、アート鑑賞ついでにぜひ立ち寄ってみてほしい。
16 厳島神社宝物館
廿日市市宮島町|1934年|大江新太郎|要入館料。館内撮影禁止

日本でRC(鉄筋コンクリート)が普及するきっかけとなったのは関東大震災(1923年)といっていい。建築家たちは揺れにも火にも強いRCに注目し、ではRCで和風建築をどう作ればいいかという議論が生まれ、様々なデザインが試されていった。

世界遺産に登録され多くの観光客を集める厳島神社。その出口の前に小さな博物館がある。立ち寄る人は少ないが、実はこれこそ広島のRC近代和風建築の貴重な現存例だ。建てられた1930年代は技術的な蓄積も進んでおり、貴重な宝物を収蔵する建物には当然のようにRCが選ばれた。設計を担った大江新太郎は、日光東照宮の修理や明治神宮造営など寺社を中心に活躍し、伝統的な木造と最新のRCの双方に通じた建築家として知られる。

外観を見てみよう。全体的には、新しい造形への挑戦というよりは、木造の「かたち」をコンクリートで忠実に再現した保守的な印象を受ける。だが決して安易なデザインではなく、この柱・梁のプロポーションからは、木造に精通した人らしいバランス感覚を感じる。一方、中に入ると伝統的な和風とは違う縦長の窓が並び、印象が変わる。モダニズムに席巻される前の試行錯誤がうかがえ、とてもおもしろい。

確かに作品としての自己主張は控えめだが、厳島神社や周辺の街並みへ溶け込ませることが設計意図とも解釈できる。そのシブさに共感できる玄人にこそおすすめしたい、宮島の隠れ建築スポットといえる。
15 古江修道院
広島市西区|1957年|竹中工務店|(註:現存しません)

「広島の建築の特徴は?」と聞かれたら「戦後復興期のモダニズムです」と答えるようにしている。木造の逸品のほぼ全てを戦災で失った広島ではどうしても復興モノが中心となり、丹下・村野という巨匠の作品が目立つが、実は同時期に建てられた隠れた名品も多い。
広島学院の校内に建つ古江修道院もその一つ。解体が予定されているためアーキウォークの主催で見学会を行い、参加者と一緒に内部を見て回った。

まずは外観から。本作はデザインの異なる聖堂と修道院が連結されている。聖堂は横連窓に引戸で和風を感じさせ、ピロティを持つなどモダニズムらしい姿。修道院は一転して壁主体の保守的なスタイル。注目点は修道院の窓で、観音開きではなく上げ下げ式が2つ並び田の字になっている。かつて30人近くいたという外国人司祭・修道士向けの仕様なのだろうが、日本人の発案とは考えにくく、イエズス会施設を多く監修したドイツ人建築家が関与したと推測している。
ディテールも決して華美ではないが、丁寧な仕上げによる凛とした美しさや暖かみが印象的。特に洗礼盤周辺の床は真鍮目地付き研出し仕上げで、天然石のような風合いがいい。スチールの建具や木製家具も年月を経た深みを感じさせる。

解体は残念だが、せめてその姿を記録に留めることで広島の建築文化の隠れた一面に光をあてることも、アーキウォークの役割だと思っている。
14 広島医師会館
広島市西区|1969年|日建設計|建物見学する場合は受付に申し出る(平日9〜17時)。掲載写真は改修前の姿であり、現状とは若干異なる。

モダニズム建築の価値を説明するのは、実はとても難しい。「赤レンガの洋館」のような分かりやすい要素がなく、「え?そのへんのビルと何が違うん?」と問われると答えに窮することもしばしば。でも、モダニズムにもまちがいなく名作と駄作とがある。

広島に数あるモダニズムの中で、大傑作とは言わないけども、名作のひとつに数えられるのが観音にある医師会館。医師会のオフィスなどが入居している。外観を大きく見てすぐ気づくのは、外装を構成するPC(プレキャストコンクリート)の部材がうみだす彫りの深さと、窓周りに生じる陰影。合理性から選ばれる工法をうまくデザインに取り入れている。また、敷地の高低差に対応し幹線道路と2階入口をつなぐための人工地盤や、その下の小さなピロティなども、ル・コルビュジェ以来のモダニズムを受け継ぐ表現といえる。そして、「そのへんのビル」と明らかに違うのは入口のロビー空間の質。上下階のロビーをつなぐ吹き抜けに特徴的な形の階段(片持ち階段)が置かれており、シンプルながら緊張感のある空間を演出している。

モダニズム建築は名作なのに気づいてもらえないことが多く、全体数も多いため、専門家でも把握しきれていないのが実情だ。「そのへんのビル」だと思った建物でも、立ち止まって見つめてみてほしい。ひょっとしたらそれが名作の発見につながるかもしれない。
13 広島市江波山気象館
広島市中区|1934年|広島県建築課

20世紀に入ると科学技術の進歩や社会構造の変化により、世界の建築は大きく変わっていく。特に重要なのはRC(鉄筋コンクリート)の発達で、それまでの石やレンガにはできない表現が可能となり、機能を重視したシンプルな形の「モダニズム建築」や、彫塑的な「表現主義建築」などが誕生した。

江波山気象館は、広島に残るおそらく唯一の表現主義建築で、気象台庁舎として建てられた。外観は丸みを帯び柔らかい印象を与える一方、窓は西欧の伝統どおり縦長で安定感がある。ディテールでまず注目すべきは玄関ひさしで、柱が一本だけで意図的にアンバランスに見せている。また、塔に上がる丸っこい階段は壁から突き出た「片持ち」。おそらくRCならではの新しいデザインを試したかったのだろう。

室内もじっくり鑑賞したい。天井まわりは白い漆喰で化粧され日本を思わせる造形。階段の床や手すりは「研ぎ出し」と呼ばれる仕上げで、職人の丁寧な仕事に目が釘付けになる。広島の被爆建築で、外観に加えて内装まで残るのは本作くらいしかなく(旧日銀などで一部現存するが)、戦前の広島で花開いた豊かな建築文化に、わずかでも触れられるのはとても貴重な体験だ。

それと、個人的にイチ押しなのが柳田邦男「空白の天気図」。被爆直後の広島を襲った枕崎台風に、傷ついた気象台と職員たちが立ち向かうノンフィクションで、これを読んでから現地に行くと建物を見る目もまた変わってくる。
12 旧海軍兵学校下士卒集会所
江田島市江田島町|明治末期頃|設計者不詳|イベント時のみ開館(※記載内容はいずれも2013年2月時点)

広島湾に浮かぶ江田島には、かつて海軍兵学校という士官学校があり、世界にその名を知られていた。現在は自衛隊の学校へと変わったが、赤レンガの校舎はそのまま残され、多くの見学者を集めている。

今回紹介する建物は学校のすぐ脇の小道沿いにある。兵学校に勤める教職員などの福利厚生施設として建てられたもので、遊戯場や浴場を備えていた。外観を見ると、木造2階建てでレンガ基礎、外壁は下見板張りペンキ仕上げ、窓は縦長で上げ下げ式。エントランスには小さなベランダが付いている。典型的な明治後半の洋風建築であり、華美ではないが風格のあるたたずまいだ。戦後は民間企業の事務所として大切に使われていたので保存状態はよく、内部には年季の入ったベッドやビリヤード台まで残っている。江田島の民間施設では指折りの歴史的価値を持つ建築といえるだろう。

さて、現在この建物は空き家になっていて、このままでは解体される可能性もある。そこで地元の有志がこの宝物を受け継ぐための活動を始めていて、まずは小規模なイベントや見学会を行うようなので、もし興味を持たれたらぜひ参加してみてほしい。

ぐるぐる海友舎プロジェクト実行委員会
11 広島電鉄廿日市駅舎
廿日市市|1924年|不詳|(註:現存しません)

1912年に開業した広島電鉄※は1920年代に入ると宮島線の建設にとりかかり、徐々に路線を伸ばしていった。廿日市には駅と変電所が建設され、駅舎は1924年に廿日市町停車場として竣工した。

まず、駅なのに和風というのがおもしろい。壁は伝統的な真壁で、竹で小舞を組んで土を塗った上に漆喰で仕上げている。あちこちで土壁が剥がれて小舞が顔をのぞかせているので間違いない。基礎を見ると石、レンガ、コンクリートが混在しており、増築や改修の跡をうかがわせるが、全体としてはおおむね当初の姿が保たれているようだ。そして券売窓口や改札の痕跡は、宮島線が純然たる鉄道であった記憶をさりげなく伝えている。

確かに文化財クラスの建築ではないし、バリアフリーにもなってないし、もはや駅舎が不要なのも分かるけども、最後まで残ったオリジナルだけに解体は残念でならない。補修して違う用途に転換できればよかったのだが。

もう一つ残念なのが、すぐ近くにあった変電所だ。赤レンガの優美な建物で、被爆3日後に電車を動かした功労者でもあったのだが、今ではその痕跡さえ残っていない。

※本作竣工時の社名は広島瓦斯電軌
10 谷口織物(旧住友銀行東松原支店)
広島市南区|1921年|住友合資会社工作部|(註:現存しません)

旧住友銀行東松原支店。かつての街道筋の面影を伝えるほぼ唯一の存在であり、駅前再開発で失われる建物の中では純喫茶パールと共に特に記憶にとどめたい逸品だ。

敷地は旧西国街道に沿ったヒューマンスケールの商店街にある。そのためかファサード(正面)はレンガで表情づけられており、いわゆる看板建築の一種としていいだろう。設計は紙屋町の旧広島支店ともども住友の工作部(日建設計の前身)が担当した。被爆時には躯体を残して全焼し、戦後に銀行から物販店に変わる過程で大幅に改造されたが、外観は当初の姿をよく残している。

構造は鉄筋コンクリートかと思ったが、レンガとコンクリートの併用らしい。看板建築にしては装飾は控えめで、モダニズムに向かう過渡期らしいデザインともいえる。だが、ファサード右側の膨らんだ部分だけは庇やコーニスでしっかり飾られている。つまりそこが当初の玄関ということだ。

裏側に回ってみると、赤レンガ、コンクリートレンガ、現場打ちコンクリートなどがまぜこぜになった、これぞ地霊というべき不思議な壁が顔をのぞかせている。いったいどういう過程でこうなったのか、謎を解き明かしたかったのだが、残念、時間切れになってしまった。
09 安佐南区スポーツセンター
広島市安佐南区|1985年|日建設計|内部撮影は事前に申し出る。プールの撮影は禁止

いったいこの形をどう表現したらいいのだろう。巨大な円筒は某アニメに出てくるスペースコロニーを思わせるし、凹凸の具合はジェットエンジンのカウルのようにも見える。

この建物は広島市のスポーツ施設で、体育館とプールからなる。ガラス張りのプールの屋根はなんと可動式で、屋外プールにもできるよう設計されていた。バブリーだ、税金のムダだと騒ぐのは簡単だけど、たまにはこんな夢のある建築があってもいい。

円筒を半分に切った、蒲鉾のような形を建築の世界ではヴォールトという。力学的に安定したアーチをズラッと並べたのがヴォールトであり、単純な構造で大空間にできる利点がある。(ちなみにアーチをくるっと回転させたらドームになる) 建物全体をヴォールトにするという大胆な選択をしている一方、屋根をよく見るといくつか節目があり窓があけられているのに気付く。採光のためでもあるが、大ざっぱで野暮なデザインに陥らないよう工夫した跡だろう。

ヴォールトというシンプルな形を選びつつも、その造形を突き詰めることで、緊張感のある建築作品に仕上がっている。室内がいかにも公共施設っぽいのは残念だが、もしこの形にグッときたらぜひ見に行ってみてほしい。
08 純喫茶パール
広島市南区|1957〜60年|大垣良徳+古谷忠清|(註:現存しません)

広島駅前の電車通り沿いにパールという喫茶店がある。広電からよく見えるのでご存知の方も多いだろう。昔ながらの純喫茶というスタイルは、セルフサービス式カフェ全盛の現代では珍しい。

この建物が建ったのは昭和32年。戦災の傷痕を残しつつも、高度成長期に入り徐々に生活に余裕がでてきた時期だ。三階建てでモダンな構えの店はオープンするや大繁盛し、すぐに五階建てが増築された。以来、内外装ともほとんど姿を変えず現在に至っている。

手前の建物はいかにもモダンな横長の窓が特徴で、少し下へ傾斜しているのがおもしろい。内部には大きくカーブする階段があり、室内庭園のある二階へと導かれる。奥の増築部は縦長の窓を持ち、モダンから一転してややコンサバな印象を受けるが、これはこれで魅力的。細部では、窓枠やヒサシ部材などの鉄が良い味をだしている。

町場の商店建築らしいヘタウマな要素を多分に含んでいるものの、時間の経過と共に味わいが増し、言葉では表現しにくい独特の魅力(私はこれを地霊と呼ぶ)が宿っている。残念ながら、まもなく周辺の建物と共に再開発される予定になっているので、もし興味があれば早めに見に行くことをおすすめしたい。
07 ソットスタッツィオーネ(旧中国配電南部変電所)
広島市南区|1943年|設計者不詳|(註:2014年12月現在は使用されていません)

宇品港に向かう電車通り沿いに、小さなコンクリートの建物がある。当初は変電所として使われ、現在はレストランになっている。

この建物が建てられた昭和18年はまさに戦争のまっただなか。家の新築は制限され、建築家の仕事などほとんどない時代だったが、おそらく変電所は軍事的にも重要ということで許可が出たのだろう。コンクリートでしっかりと作られている。

まず注目したいのがエントランスだ。ヒサシの形は丸みを帯びていて、アール・デコや表現主義の影響を感じさせる。平和な時代ならともかく戦時中にこのデザインを通すのは勇気がいったことだろう。さらに、エントランスをくぐった先の吹き抜けを見上げると、機械類を搬入するための滑車やマシンハッチが変電所時代のまま残されているのに気付く。こういった古いものと新しいものの共存は新築の建物にはマネできない。リノベーション(改装)ならではの魅力といえる。

広島の中心部には味わいのある歴史的建物がほとんど残っていない。もちろん戦災のためなのだが、戦後の高度成長期に姿を消した名建築も少なくない。だからこそ、残りわずかとなった古い建物を改装しながら使い続けるのはとても大切なことだ。
ぜひこういう頑張っているお店を見つけたら客として利用してみて欲しい。それが応援になるし、魅力的な建築が街に増えていくチカラになる。
06 旧日本銀行広島支店
広島市中区|1936年|長野宇平治+日銀臨時建築部

近代日本の建築家第一世代が辰野金吾なら、長野宇平治は第二世代にあたる。西欧の古典的な建築様式を完璧なまでに習得し、各地で多くの銀行を設計した(金融界は威厳あふれる歴史主義建築を特に好んだ)。東京の日銀本店は辰野だが、この広島支店のほか岡山や松江の支店も長野がデザインした。

歴史主義建築の見せ場であるファサードを真正面から鑑賞してみよう。タテヨコのバランスや窓の配置などには安定感があり、手堅くまとまっている。お約束のオーダー(列柱)やコーニスが付き、各所に装飾が見られ、いかにも西欧らしい形。だが装飾はゴテゴテしたものではなく、オーダーも薄い付柱に過ぎない。長野は同時期に同じくRC造の「大倉山記念館(横浜市)」で様式マニアぶりを炸裂させているのに、本作はなぜこれほど控えめなのか? モダニズムへ向かう世界的な流れに沿ったと解釈するのが妥当だと思うが、施主の意向や戦時体制という世相が影響したのかもしれない。

旧芸備銀行本店をはじめとする広島の歴史主義建築は戦後に続々と解体され、オリジナルに近い姿で残るのはついに本作だけとなった。外観は被爆建築とは思えないほどよく保たれているので、ぜひ室内装飾の失われた部分を復元し、被服支廠と共に広島の近代史を体感できる本物の"建築遺産"になってもらえればと思う。
05 旧陸軍被服支廠倉庫
広島市南区|1913年|設計者不詳|非公開|関連ページ

この連載のタイトルは"建築遺産"だが、これほど遺産らしい建物はめったにあるまい。本作は軍服などを生産する軍需工場の倉庫として建設された。外観からはレンガ造に見えるが、実はRC(鉄筋コンクリート)造で、3層構造の内部にはちゃんとコンクリートのスラブが入っている。20世紀初頭のRCは世界的に見ても古く建築史上の価値は高い。延々と続くレンガ壁に圧倒され、被爆時に曲がったままの鉄扉が残っていることに驚かされる。広島に残るスペシャル級の遺産といっていい。

さて、市内の旧軍施設のうち糧秣支廠は郷土資料館部分を残して大半が取り壊され、兵器支廠はレプリカ1棟を残して完全に消滅、旧宇品駅の日本一長かったプラットホームも姿を消した。もし被服支廠が失われてしまうと、往事の軍事施設のスケールを体感できる場所がなくなり、軍都から平和記念都市に転換した歴史が本の中だけの出来事になってしまうわけで、それは広島として看過できまい。個人的には、本作は原爆ドームなみの熱意と予算をかけて保存すべきで、しかもただ保存するのではなくテートモダンのような美術館に再生させるのがベストとみる。確かに耐震性には難がありそうだし、階段も足りない、防火設備もない。現行法規に適合させるには相当なお金がかかりそうだが、世界中でも広島のこの場所でしかできないアートは必ずあるはずだ。

[注意!] 通常非公開であり敷地内には入れません。
04 基町のスターハウス
広島市中区|1960年頃|設計者不詳|住宅につきプライバシーへの配慮が必要。

前回紹介した基町高層アパートの隣に広がるのが県営基町住宅。いかにも団地らしい板状住棟群に混じって、三方向に突き出した独特な形の建物がある。上から見るとY字型で星のように見えるので俗にスターハウスと呼ばれ、板状住棟が建てにくい敷地やアイストップとなる場所に建てられることが多い。1フロアあたり3戸が配され、3面採光も可能で通風採光に優れるとして人気を集めたという。

確かに、形が複雑でコスト高、北向き住戸が生じる、隣の住戸内が見えてしまう、家具を置きにくい…など、プランそのものが抱える課題は結構あるし、いずれも同じ設計図に基づいて効率重視で建てられたものであり、ディテールが特段豊かともいえない。だがこのフォルムの存在感はそんなものを超越した魅力がある。

さて、昭和30年代に集中して建てられたスターハウスは一斉に更新期を迎えていて、全国的に数を減らし続けている。このスターハウスも間もなく解体される予定であり、(私の知る限り)県内では福山の数棟を残すのみとなる。基町から牛田にかけての太田川沿いには、標準設計による住棟や高層アパート、公団の市街地住宅など多種多様な団地が並んでいるが、これから続々と解体されるのは間違いない。今のうちに目に焼き付けておいた方がよさそうだ。

[注意!] 現役の住宅であり、外観であっても不用意にカメラを向けることは控えてください。
03 基町・長寿園高層アパート
広島市中区|1972〜78年|大高建築設計事務所|屋上は通常非公開。住宅につきプライバシーへの配慮が必要。

アーキウォーク広島が10月に実施した建築一斉公開イベントの中で最も人気を博したのがこの基町アパート。地元民なら誰でもその存在は知ってるけど、屋上庭園(通常非公開)がこんなになってたなんて!という意外性がうけたのだろう。屋上庭園は機械設備などのないシンプルな空間で、しかも北端部が最も高くて南に行くほど低くなっており、眺望は申し分ない。ビルの屋上というよりは山の尾根線のようであり、集会所や庭園が天空に浮かぶ景は山岳集落を連想させる。

ピロティ、屋上庭園、ユニット化された住戸などは、ル・コルビュジェが提示したスタイルを踏襲しているが、屏風のように折れ曲がった棟配置や人工地盤による歩車分離など、より都市への意識が強い作品といえる。また、屋上庭園にせよ共用廊下にせよ、従前の低層密集住宅群の雰囲気やスケール感をどう受け継ぐかに注意が払われており、この点は藤本昌也(大高正人の下で本作の設計を担った)が後に手がける「鈴が峰住宅」「庚午南住宅」にも受け継がれている。

話が広島から離れてしまうが、もし建築家大高正人に興味を持ったら、ぜひ坂出人工土地(香川県坂出市)を訪問してほしい。基町ではあまり見られない、人工地盤によるメタボリズム表現を存分に鑑賞できる。

[注意!] 基町高層アパートは現役の住宅です。外観であっても不用意にカメラを向けることは控えてください。屋上は通常非公開であり、立ち入ることはできません。(アーキウォークでは不定期で見学会を実施しています
02 広島市立矢野南小学校
広島市安芸区|1998年|象設計集団

アーキウォーク広島は10月に建築一斉公開イベントを開催し、多くの参加者に広島の建築を見学して頂いた。今回はその中から矢野南小学校を紹介したい。設計を担った象設計集団は80年代に埼玉の笠原小学校(児童は常に裸足で過ごすというスゴイ設計)を手がけており、自然との共生、外部と内部の一体化、経年変化を前提とするディテールなど、笠原小学校で成功した手法が本作にも取り入れられている。

外観を見てみよう。独特のうねった造形は段々畑や住宅団地等の地形の表現だが、それを支えるRCの列柱との組み合わせはガウディのグエル公園を連想させる。共用廊下は外部空間として教室の南側に配され(通常は教室の採光を優先して北側に配する)、子供たちが休み時間に教室から出ると、そこは草の生い茂る専用庭。これが2〜3階にもあるのだからすごい。しかも屋上には水田まである。
ディテールも丁寧。ドアや窓枠は木製で古き良き木造校舎のような風合い。中庭の排水路はレンガやタイルで彩られ、子供が喜びそうな遊び心あふれるしかけが随所に見られる。

建物は徐々に色あせ、使い込まれた建具は質感を増し、樹木は太く大きく成長していく。時間の経過と共に良さが増えていく建築はそうそうあるものではない。数十年後にどこまで美しくなるか、今から楽しみだ。

[注意!] 普段は内部見学することはできません。アーキウォーク広島が実施する見学会などの機会をご利用ください。
01 京橋会館
広島市南区|1954年|広島県住宅公社|(註:現存しません)

広島駅にも近い京橋町のまちなかに、京橋会館という集合住宅がある。当初は民間の共同化事業として計画され、曲折を経て公社住宅となり、後に市営住宅となった建物だ。8月には広島市との共催で解体前の見学会を開催し、多くの見学者が来場した。

京橋会館の最大の特徴は中庭をぐるりと囲む「街区型(ロの字型)配置計画」にある。中庭には砂場があり、1階住戸の勝手口は中庭側にある。中庭は地域コミュニティの核、セミプライベートな共用庭園として計画されたと思われ、かくして国内にあまり例のない濃密な中庭空間が出現した。
住戸内の間取りは長屋と同様の「続き間」。現代の視点では狭く使いにくい住宅であったとしても、粗末な小屋が並んでいた当時の広島では、電気・ガス・水道・トイレが完備された近代的なアパートは豪華仕様であった。

現代の集合住宅である「マンション」は高度に商品化されている。売り手も買い手も、設計者さえも定番に縛られがちだが、経済性や定番だけを見ていては京橋会館のような中庭は実現しないし、そもそも住まいは単なる商品ではなく、もっと多様であっていい。

私はこの建物に、定番に縛られる前の自由さを見た。残念ながら間もなく解体となるが、この中庭の独特な空気感はいつまでも記憶していたいと思う。

text & photo : 高田 真
1978年広島生まれ、東京在住の都市プランナー。アーキウォーク広島 代表。

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