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  • 記載内容は執筆者の推測や個人的な感想を含みます。
  • 倉庫の敷地内は通常非公開です。建物内は調査のため特別に撮影したものであり、通常立ち入ることはできません。
  • キャプションに★が付いているのは本作(被服支廠倉庫)の写真であることを示しています。
  • この建物の紹介冊子を作成しています。詳しくは旧被服支廠倉庫のプロジェクトサイトをご覧ください。
残り僅かとなった広島の被爆建物の中でも特別な存在といえるのが旧陸軍被服支廠倉庫(出汐倉庫)です。巨大な倉庫が4棟現存し、どこまでも続くレンガ壁はかつての軍都広島のスケールを感じさせます。
一方で、この建物はたとえ被爆していなかったとしても、その建築技術史上、近代史上の価値は極めて高いものといえます。

ここでは、本作の建築としての価値に着目し、過去及び近年の調査をふまえつつ、現在分かっている範囲の内容をまとめたものです(一部推測を含む)。
今後も新たな内容が判明すれば随時掲載していきたいと思います。
★まちなかに突如出現する赤レンガの壁面はとても印象的です。

建物の歴史と経緯

被服廠とは、軍服・軍靴の製造・調達・貯蔵等を担う軍需工場であり、1886年に東京本廠、1903年に大阪支廠が設置されました。日露戦争中の1905年に広島に洗濯工場建設が決まり、1907年には支廠へ昇格しています。広島に支廠が置かれたのは、宇品に陸軍輸送船を統括する運輸部があり、大陸へ物資を送る拠点として都合が良かったためと思われます。被服支廠以外に兵器支廠・糧秣支廠が置かれたのも同様の理由でしょう。なお、東京・大阪の被服本廠・支廠の施設は現存しないため、本作は被服廠の貴重な現存施設といえます。(ちなみに、東京の被服本廠は関東大震災時に莫大な焼死者を出した悲劇の舞台として知られています)

被爆時には、爆心地から距離があったこともあり、本作をはじめとして敷地内の多くの建物が損傷しつつも残りました。被爆直後には押し寄せる負傷者を収容する臨時救護所となり、その悲惨な状況は詩人峠三吉の文章などに残されています。

戦後すぐは学校の教室として使用され、1956年頃からは北側の3棟(旧11〜13番庫)は日通が倉庫として使用、南側の1棟(旧10番庫)は広島大学の学生寮などとして使用されました。1995年頃には日通が使用を停止、同年に学生寮も閉鎖されたようです。なお、被服支廠の木造倉庫なども同様に校舎などとして使用されたようですが、戦後に続々と解体され、残念ながら現存していません。

★1944年の様子(wikipediaより)

★L字に並んでいるのが今回紹介する倉庫群。隣接する高校も旧被服支廠の敷地でした。

RC(鉄筋コンクリート)の歴史を知る

本作の建築的な評価の第一のポイントは、日本最古級のRC造(鉄筋コンクリート造)であるという点です。ここを理解するにはRCの歴史を知らねばなりません。

RC(Reinforced Concrete)とは、圧縮に強いコンクリートと引張りに強い鉄とを組み合わせて高い強度を実現した手法です。コンクリート自体は古くから知られていましたが、産業革命で鉄が大量生産されるようになったこともあって19世紀末に研究開発が進み、1910年代には基礎的な技術がほぼ確立しました。RCの先進地だったフランスでは1903年には早くもRCを使ったアパートが建っています。

日本でも比較的早期に技術導入がはかられていて、1903年に京都の琵琶湖疎水にRCの橋が架けられています。国内に現存する古いRC建築としては、旧三井物産横浜支店(1911年)や小野田セメントの工場建屋(1911年)などがあり、いずれも本作より若干古い事例です。
なお、国内初のRC造アパートは有名な端島(軍艦島)30号棟とされ、1916年の完成です。

ただし、当時のセメントは高価であり、鉄筋は輸入品で、RCを理解できる技術者も少なく、一気に普及したわけではありません。状況が大きく変わったのは1923年の関東大震災で、レンガ造は揺れに弱く、木造は火に弱いため、RCに注目が集まりました。震災後には庁舎などの重要施設や、いわゆる同潤会アパートなどの高級住宅にもRCが採用されるようになります。

この流れの中で、広島でも本川尋常高等小学校(1928年)や三井銀行(1925年)などが建てられます。しかし、1930年代からは戦時の建築制限が始まって建築活動そのものが停滞し、RCが一般家屋に普及するのは1950〜60年代以降となります。
つまり、広島に限らず国内のRC建築の多くは1923年以降であり(逆に、レンガ造は1923年以降ぱったりと建てられなくなる)、1913年というのはまだ試行錯誤が続いていた時期にあたり、世界的に見てもRCの建物が非常に珍しかった時期といえます。本作が広島初のRC建築かは分かりませんが、最古級なのは間違いありません。
<フランスに残る古いRC造建築>

パリに今も残るフランクリン通りの集合住宅(1903年)は世界初のRCの集合住宅として知られています。外壁にはアール・ヌーヴォーの影響と思われる装飾が見られます。

ル・ランシーのノートルダム教会(1923年)は、おそらく世界初のコンクリート打ち放しの建築です。石やレンガを積み上げて壁を作るという西欧の建築の基本をRCの細い柱で覆し、壁全体を窓とした革新的な設計でした。

<国内最古級(関東大震災前)のRC造建築>

国内最古のRC造オフィスビルである旧三井物産横浜支店(1911年)

国内最古のRC造集合住宅である端島30号棟(1916年)

<東京における関東大震災復興期のRC造建築>

関東大震災からの復興の一環で建てられた同潤会上野下アパート(1929年・現存しない)

常盤小学校(1929年)も関東大震災からの復興の中で地震と火災に強いRCが選ばれています。

<広島における古いRC造建築(関東大震災後)>

旧本川尋常高等小学校校舎(1928年・一部のみ現存)

旧三井銀行広島支店(1925年)
1910年代、すなわち明治末期〜大正初期は、日本人が西欧の建築技術・様式の習得をほぼ終えた時期であり、一通りのものは独力で設計施工できる状態となっていましたが、RCで地震に耐える技術は関東大震災後の日本で研究が進むことになりました。本作は震災前の、欧米からの技術導入でRCにチャレンジしていた頃の建物であり、震災の教訓が反映された1923年以降の建物とは様相が異なります。(耐震性の問題は、歴史上は大変貴重なのですが、本作の利活用を難しくさせている要因ともなっています)
<旧陸軍被服支廠倉庫(関東大震災前)内部の様子>

★本作は震災前の、欧米からの技術導入でRCにチャレンジしていた頃の建物であり、その歴史的価値は高いといえます。一方で、発展途上の(震災を経験していない)時期に建ったために耐震性の問題を抱えており、本作の利活用を難しくさせている要因ともなっています。

本作でのRC(鉄筋コンクリート)の使われかた

前述の通り、本作はRCが使用された国内最古級の建物ですが、実態としてはRCとレンガの併用です。つまり、それまでのレンガ造建物が「レンガを積んで壁を作り、内部の柱や床を木・鉄で作る」のに対し、本作では壁はレンガのままとして内部の柱や床の材料をコンクリートに置き換えたというものです。
もう少し詳しく見てみます。まず、外壁や内部の仕切り壁にはRCが確認されず、全てレンガ積み(オランダ積み)のようです。開口部は崩れないようにアーチや水平アーチとなっています。そして積み上がったレンガ壁の上にRCの床を載せ、室内にはこれを支えるRCの柱を立てています。
裏側の1階張り出し部分は、屋根がRCの陸屋根(平らな屋根)となっています。

<旧陸軍被服支廠倉庫、内部の様子>
★倉庫1階の様子。壁は赤レンガを積んで構成されており、RCは使われていないようです。

★内壁の開口部はレンガのアーチとなっています。

★水平アーチになっている箇所も見られます。
さらに注目すべきなのは、屋根を支える小屋組もRCで作っているところです。例えば旧陸軍糧秣支廠(広島市郷土資料館)の場合はレンガで壁を作り、その上に鉄の小屋組を載せて屋根を作っており、本作でも同様に鉄を使うのが常道と思われますが、あえてRCで斜めの梁を渡し、屋根もRCで作られています(実際はその上に瓦が葺いてあります)。
★倉庫3階の様子。小屋組はRC、屋根もRCです。
参考までに、広島の他の陸軍施設である兵器支廠や糧秣支廠と比べてみましょう。壁はいずれもレンガ造。小屋組は、兵器支廠は木、糧秣支廠は鉄、被服支廠はRC(それぞれ違うのが興味深い)。屋根は兵器支廠と被服支廠が瓦、糧秣支廠が鉄板のようです。

<そのほかのレンガ造の旧陸軍施設>

旧糧秣支廠缶詰工場(1911年)。元々はレンガ造ですが、現在は内側からRCで補強され、郷土資料館として公開されています。

旧糧秣支廠の小屋組。鉄のトラスのようです。
同時期に陸軍は各地に倉庫を建てていますが、RCは(ざっと調べただけですが)見あたりません。例えば本作に似たものとして金沢の事例がありますが、RCは使われていません。本作においては、おそらく不燃性や大空間の確保を狙って実験的にRCを採用したものと想像されますが、真相は謎のままです。


旧金沢陸軍兵器支廠倉庫(1909〜1914年)。本作とほぼ同時期、同スケールの倉庫ですが、RCではありません。現在は石川県の博物館となっています。

旧東京砲兵工廠。20世紀初頭に建てられたレンガ造。現在は一部保存され北区中央図書館となっています。
被服支廠倉庫のRCの床(スラブといいます)には「カーン式」と呼ばれるアメリカ製の鉄筋が使われたと思われます。カーン式は日本におけるRC黎明期に多数採用されましたが、耐震性に問題があり、関東大震災で被害が多発したため、震災後は使われなくなったといいます。

広島は砂地で地盤が悪いため、兵器支廠などでは松杭を大量に打ち込んだ上にコンクリートを打って基礎とし、その上にレンガを積んでいます。一方、本作ではRCの杭が使われているようです。杭は固い岩盤までは到達しておらず、不同沈下(建物が地面に沈み込み若干傾いている)が生じていますが、当時としては先端技術を採用したものと想像します。

<旧陸軍被服支廠倉庫、内部の様子>

★本作の3階におけるスラブの状況。

ここまでの内容をふまえて、被服支廠倉庫の断面を描いてみると右のようになります(あくまで推測に基づくものです)。
レンガで作った壁の上にRCの床(スラブといいます)が載っかる、現代では考えられないハイブリッドな構造のようです。それまで木や鉄で作っていた内部の床や柱をRCに置き換えられないかチャレンジしてみたらこうなった…のだろうと想像しています。

★調査をもとにレンガとRCの関係を推測。

本作の建築デザインについて

明治期の日本の建築家たちは、まず西欧の建築をそのままコピーすることから始め、明治末期には概ね技術を習得します。時代が下って昭和期になると、装飾のないモダニズムと呼ばれるスタイルがRCの普及とともに世界的に流行するようになります。その中間である大正期というのは、徐々に西欧の様式から離れつつも(レトロからモダンへ)、まだ装飾的な要素は若干残っていた時代にあたります。広島では、バロック&セセッションである産業奨励館(原爆ドーム)がいかにも大正期らしい建築です。
本作の場合、派手な装飾があるわけではありませんが、屋根のピナクルや梁の端部の繰形からわずかに装飾的要素を感じさせます。
また、レンガとRCを併用した結果、外観が「重厚でレトロ」な印象なのに対し室内は「軽快でモダン」な印象であり、風格を持たせつつ新しさも感じさせます。純粋なレンガ造・RC造のどちらとも違う過渡期ならではのものと言えるでしょう。

■旧陸軍被服支廠倉庫に見る建築デザイン

★頂部に付けられたピナクル。

★各所に見られる繰形(くりがた)

★室内は軽快でモダンな印象。

場(サイト)が持つ力

建築単体としての価値のほかに、倉庫が群として存在感のある「場」を留めている点も極めて重要な価値と評価できます。
広島という都市が近代において発展の原動力を陸軍と軍需に求めたことは、それが良いか悪いかはともかく、歴史的事実としてまず受け止めねばなりません。しかし、教科書や映像で学ぶだけでは、知識としては理解できても実感は持てないものです。
旧被服支廠の倉庫群を目の前にすると、理屈抜きにその巨大さに圧倒されます。また、曲がったまま保存されている多数の鉄扉は、説明がなくても被爆の実態を感じさせます。この場に身を置き、五感を使うことで、「実感」という、書物では得られない膨大な情報を得ることができます。これこそ教科書や博物館では決して学べない生の歴史であり、兵器支廠・糧秣支廠・運輸部施設などの旧軍施設を戦後に失った広島においては、本作こそが残された最後の「広島の歴史の重要な一面を体感できる場」であり、その価値は計り知れないものがあります。

★この場に身を置くことで、五感から得られる情報は非常に豊富です。
倉庫内外のパノラマ画像
倉庫内外のパノラマ画像をご覧頂けます。右の画像をクリックしてみてください。

なお、閲覧するにはActive X や Java Script を有効化する必要があります。ブラウザによっては表示されないこともあります。

パノラマ画像1(外観)

パノラマ画像2(3階室内)
見学ガイド
■交通 広島バス(赤バス)31号線「出汐二丁目」バス停から徒歩3分。
広電 路面電車「皆実町二丁目」電停から徒歩15分。
■周辺地図 マピオン地図
■見学可能時間 外周道路より外観のみ常時見学できますが、周辺は住宅や学校ですので、ご迷惑とならないよう配慮をお願いします。
建物データ
■所在地 広島市南区出汐
■設計 不詳
■竣工 1913年
■構造 レンガ造+RC造
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