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ご注意!
  • 倉庫の敷地内は通常非公開です。建物内は調査のため特別に撮影したものであり、通常立ち入ることはできません。

戦後、旧被服支廠の跡地は学校などに変わっていき、現存するのは敷地のごく一部、レンガ倉庫4棟を残すのみです。それでも500m近くレンガ壁が続く風景には圧倒されます。まさに広島の近代史を体現している唯一無二の場所といえるでしょう。


倉庫の内部は鉄筋コンクリート(RC)で作られており、レンガで覆われた外観とは印象が全くちがいます。特に3階はRCの斜め梁がズラリと並ぶ、驚きの空間が広がっています。(2020年現在は建物内に入ることはできません)


1.旧広島陸軍被服支廠の歴史

地方都市である広島が近代化を遂げるきっかけとなったのは宇品の築港・干拓事業でした。築港直後の1894年に日清戦争が勃発すると港への鉄道が敷設され、広島城には大本営や帝国議会が移転。こうして臨時の首都となった広島は戦争遂行の拠点となります。1904年には宇品に陸軍運輸部が置かれて物資輸送の一大拠点となったこともあり、周辺には巨大な三つの軍需工場(兵器支廠・被服支廠・糧秣支廠)が建設され、軍需は広島の地域経済にとって欠かせない原動力の一つとなっていきました。
旧広島陸軍被服支廠は、宇品港にも近い鉄道沿いに建設された軍需工場であり、軍服や軍靴の製造・調達・貯蔵等を担いました。被服廠は1886年に東京本廠、1903年に大阪支廠が設置されていましたが、1905年に広島での洗濯工場建設が決まり、1907年に広島支廠へ昇格という経緯をたどっています。なお、東京本廠と大阪支廠の施設は現存しておらず、本作は被服廠の貴重な現存施設といえます。
被爆時には被服支廠も高温の爆風に襲われ損傷しますが、多くの建物が倒壊せずに残りました。被爆直後には臨時救護所となり、多数の負傷者が収容されましたが、その多くはこの地で息を引き取ったとされ、その悲惨な状況は詩人峠三吉の文章などに残されています。
被服支廠のレンガ倉庫群は、戦後すぐは学校の教室として使用され、1956年頃からは1〜3号棟(旧11〜13番庫)を民間企業が倉庫として使用、1965年には4号棟(旧10番庫)に広島大学の学生寮が設置されました。1995年頃には倉庫の使用が停止され、同年に学生寮も閉鎖されたようです。なお、被服支廠に数多くあった木造建物も同様に校舎などとして使用されましたが、続々と解体され現存しません。こうして被服支廠の敷地は、空き家となった赤レンガ倉庫4棟のほかは県立広島皆実高校・県立広島工業高校となり現在に至っています。
なお、被服支廠と同時代に建設された兵器支廠は、戦後は県庁舎や大学病院として使用され、糧秣支廠の建物では製菓メーカーのカルビーが創業しました。三つの軍需工場の建物は戦後の広島の復興を支える重要な役割を担ったのです。


History of the Former Hiroshima Army Clothing Depot
The modernization of Hiroshima began with the construction of a modern seaport in the late 19th century. Following the outbreak of the Sino-Japanese War in 1894, the port was used by the army, and numerous military facilities were built in Hiroshima. The military industry was a key factor in the city’s growth. The four buildings described in this booklet were built in 1913 as warehouses for a factory that manufactured army uniforms.
These warehouses withstood the atomic bombing of 1945 although they were damaged by the intense heat and blast. Shortly after the bombing, many injured people were brought here, and many of them died.
After the war, the warehouses were used for high school buildings and then as warehouses for a private company. Today they are left unused.





2.鉄筋コンクリート造建築の発達

旧広島陸軍被服支廠倉庫(以下、被服支廠倉庫)が建築史上で価値を持つのは、この建物が国内最古級のRC(鉄筋コンクリート)造であるためです。現代ではありふれたRCについて理解を深めるために、その歴史を簡単に振り返ってみましょう。
RCとはReinforced Concreteの略で、圧縮に強いコンクリートと、引っ張りに強い鉄を組み合わせることで高い強度を実現した手法です。産業革命以降に鉄が大量生産されるようになったこともあって19世紀末に研究開発が進み、1910年代には基礎的な技術がほぼ確立しました。先進地のフランスでは、1903年には早くもRCを使ったアパートが建っています。
日本でも比較的早期にこの新技術の導入がはかられており、1903年には京都の琵琶湖疎水にRC造の橋が架けられています。国内に現存する初期のRC造建築としては、旧三井物産横浜支店(1911年)や小野田セメント工場建屋(1911年)があり、いずれも被服支廠倉庫より若干古いものです。国内初のRC造アパートは軍艦島として有名な端島の30号棟(1916年)とされます。
ただし、当時のセメントや鉄筋は高価で、設計できる技術者も少なく、普及は進みませんでした。状況が変わる契機になったのは1923年の関東大震災で、レンガ造は揺れに弱く木造は火に弱いためRCに注目が集まりました。震災後には庁舎などの重要施設や、いわゆる同潤会アパートなどの住宅にRCが採用されるようになります。この流れの中で、広島でも本川尋常高等小学校(1928年・一部現存)や三井銀行(1925年・広島アンデルセンの一部外壁のみ現存)などのRC造建築が建てられます。しかし、1930年代後半からの戦時建築制限で建築活動そのものが停滞したこともあり、RCが一般家屋に普及するのは1950年代以降となります。
被服支廠倉庫が建てられた1913年はRCの技術を欧米に学びながら試行錯誤していた時期であり、関東大震災の教訓が反映された1923年以降とは様相が異なります。つまり、被服支廠倉庫は国内初期のRC造建築の一つであり、その過渡期的な様相は建築技術史上きわめて高い価値を持つといえるのです。


Progress in Ferroconcrete Construction
These warehouses were among the earliest ferroconcrete buildings in Japan. The world's first ferroconcrete apartment building was built in France in 1903. Ferroconcrete buildings, or reinforced concrete buildings, became common in Japan after many brick buildings were destroyed in the Great Kanto Earthquake of 1923. In 1913, when these warehouses were built, ferroconcrete technology had not been fully developed, and engineers were learning through trial and error. These warehouses reflect that transition period and are important for understanding the history of architectural technology.




3.レトロとモダンの共存

被服支廠倉庫の特徴は「レトロとモダンの共存」といえます。本作は前述のとおりRC(鉄筋コンクリート)が使われた国内最古級の建物ですが、外観はレンガ造に見えます。では、見栄えをよくするためにコンクリートの建物の表面にレンガを貼ったのかというと、それも違います。RCとレンガは併用され、それぞれ構造体として機能しているのです。
レンガ造の建物の多くは、壁はレンガであるものの、内部の柱や床は木(鉄のこともある)で作られていました。被服支廠倉庫はこの「内部の柱や床」を木に代えてRCで作るという発想で設計され、その結果RCとレンガを併用する形になったものと考えられます。このような併用は国内では他に現存例がない(※)大変珍しいものであり、技術的な試行錯誤の跡からはレンガからRCへ移行していく過渡期の様子をうかがうことができます。
被服支廠倉庫の構造をもう少し詳しく見てみましょう。まず、外壁や内部の仕切り壁はRCではなく全てレンガと思われます。開口部が崩れないようアーチになっているのもレンガ造によく見られる特徴です。そして積み上がったレンガ壁にRCの床を載せ、室内にはこれを支えるRCの柱を立てているようです。1階張り出し部分はRCの陸屋根(平らな屋根)となっています。

さらに注目すべきなのは、屋根そのものや小屋組もRCという点です。例えば旧陸軍糧秣支廠缶詰工場(広島市郷土資料館)の場合はレンガで壁を作り鉄の小屋組を載せて屋根を作っており、被服支廠倉庫でも同様に鉄を使うのが通常と思われますが、ここではあえて屋根全体がRCで作られています。RCで斜めの屋根板を作るというのは当時の技術では難しい工事であったことでしょう。また、杭についても、旧兵器支廠倉庫で松杭が使われたのに対し、被服支廠倉庫ではRC杭が使われているようです。長い年月の中で不同沈下(建物が地面に沈み込み若干傾いている)が生じていますが、当時としては先端技術を採用したものと思われます。
倉庫の設計を担当したのは当時の状況から陸軍第五師団の技師と思われますが、裏付ける資料はなく(※)、推測の域を出るものではありません。また、陸軍は同時期に全国各地にレンガ造の倉庫を建てていますが、RCを使った例は他に確認できません(※)。被服支廠倉庫の場合、不燃性や大空間の確保を狙って実験的にRCを採用したと推察されますが、詳しい理由は不明です。
このように、被服支廠倉庫は構造技術という側面では、レンガという従来の(レトロな)技術とRCという新しい(モダンな)技術が共存する、大変珍しいケースといえます。

デザインの側面ではどうでしょうか。被服支廠倉庫が建てられた大正時代は、明治期に導入された西欧の様式から徐々に離れつつも、昭和期に普及が進んだ無装飾なモダニズムとは異なり、まだ装飾的な要素は残っていました。広島では、バロック風の意匠をベースにセセッション風の装飾を加えた旧産業奨励館(原爆ドーム)が大正期らしい特徴を備えた代表的な建築です。
被服支廠倉庫の場合、軍の倉庫ということもあり壮麗な装飾はありませんが、屋根のピナクル風装飾や梁の端部のモールディング(繰形)からわずかに装飾的要素を感じさせます。また、レンガとRCを併用した結果、外観が重厚でレトロな印象なのに対し室内は軽快でモダンな印象となっており、風格と新しさの両方を感じさせます。構造技術の過渡期の様相がデザインにも反映されているといえます。

最後に建築としてのその他の見どころいくつかご紹介しましょう。見学時にもっとも見逃しやすいのが窓です。レンガ建物の窓は上げ下げ式や観音開きが多いですが、この倉庫では窓枠が横にスライドする珍しい形式であり、戸袋に相当する隙間がレンガで作られています。
レンガは瀬戸内海沿岸で生産されたもので、イギリス積み。地面に近い部分は色が濃くて防水性の高い「焼過レンガ」になっています。
瓦は先が尖っていることから、戦前期の瓦によく見られる「鎬瓦(しのぎがわら)」というタイプと分かります。被爆直後の写真でも瓦が脱落している様子がうかがえないことから、オリジナルの被爆瓦が現存している可能性が高いと思われます。

※アーキウォーク広島 調べによる


Traditional and Modern Features
The warehouses have both traditional and modern architectural features. While employing the style of the brick buildings developed in Europe for the exterior, modern ferroconcrete technology was used for the interior, including the floors and pillars, which would ordinarily have been made of wood or iron. That is to say, the traditional brick technology was employed for the exterior while the latest ferroconcrete technology was used for the interior. This combination of old and new is rare.
The design of the buildings is simple but with some decorative details. These features give the buildings both a “retro” and a modern feel.





4.場(サイト)が持つチカラ

被服支廠倉庫の特徴として、建築単体だけでなく4棟が群として残ることで「場(サイト)」を形成している点も見逃せません。
広島という都市が近代化の原動力の一つに軍需を求めたことは、歴史的事実としてまず受けとめねばなりませんが、その事実を教科書を読んで学ぶだけでは、知識として理解できても実感を持ちにくいものです。しかし、500メートル近くもレンガ壁が続くこの倉庫群を目の前にすると、誰もが理屈抜きにそのスケールの巨大さに、そしてその背後にある当時の陸軍の存在の大きさに圧倒されるでしょう。
また、曲がったまま残されている多数の鉄扉は、そこに説明書きがなくても被爆の実態を直感的に感じさせます。被爆直後、倉庫には膨大な数の負傷者が運び込まれ、その多くが息を引き取ったことで、被服支廠倉庫は被爆建物の中でも群を抜いて多くの死の現場となりました。決して忘れてはならないそれらの悲惨な状況も、この空間に身を置くことで、文字からだけでは得られない「実感」を持って心に刻むことができます。これこそが教科書や博物館では決して学べない生の歴史であるといえましょう。
4棟のうち一部だけを残したり、曲がった鉄扉を切り取って博物館に置いたりしても(理解はできたとしても)実感を得るのは難しく、場そのものが残っていることに大きな意味があります。旧軍施設に限らず多くの被爆建物を戦後の復興・開発の中で失った広島においては、近代史や被爆の実態を実感を持って知ることのできる場としては旧被服支廠は現存唯一です。その存在意義は単なるレンガ倉庫の建築的な価値を超えた、はかり知れないものがあります。
崩壊した姿をとどめることで被爆という事実を直接的に感じさせる原爆ドーム(旧産業奨励館)、戦後の復興で目指された平和記念都市建設の象徴である平和記念資料館、そして近代化の実相を伝える旧被服支廠。これら3つの「場」は、広島という都市を語るため、次世代に受け継ぐために欠くことのできない役割を担っています。また、数を減らし続けている被爆建物をどのように後世に受け継ぐかという課題においても、最大級の被爆建物である本作の役割は大きくなっているといえます。


A Place to Sense History
People learn about history not only from books and museums but also by visiting historic sites. Seeing those sites and feeling the atmosphere there help people gain a true understanding of history. Many buildings that symbolized the modernization of Hiroshima were destroyed in the war and in the course of urban development. These large-scale warehouses are among the few remaining buildings that allow people to learn firsthand about the modern history of Hiroshima.
Visiting the A-bomb Dome is not enough to gain a deep insight into Hiroshima. With their long brick walls and their iron shutters bent by the atomic bomb, these warehouses are also worth a visit.





5.建物を取り巻く状況

戦後、被服支廠の施設が学校に転用される際に、レンガ倉庫4棟のうち1〜3号棟(旧11〜13番庫)は国から県に移管されました。これら3棟は後に物流会社が借り受け倉庫として1995年頃まで使用されています。4号棟(旧10番庫)は国管理のまま広島大学の学生寮として使用されました。4棟とも1990年代には空き家となり、活用策が模索されましたが決まらず、現在まで放置されたことで建物の劣化が進んでいます。広島県は2017年に行った耐震診断により耐震性不足が明らかになったとして建物内部を立入禁止としました。さらに最低限の補修予算(抜本的な耐震補強は行わない)を議会が拒絶したこともあり、県は2019年12月に3棟中2棟を解体する方針を発表、国も所有する1棟を解体する意向を示しました。この発表に対し各方面から様々な意見が寄せられた結果、解体決定は延期となりましたが、県は2020年6月時点では解体方針を撤回していません。2019年以降でも正門北側のレンガ塀(倉庫群の敷地外だが被服支廠の遺構の一部)が解体されるなど、遺構の破壊が進んでいます。
一方、保存技術の進歩もあり、全国各地でレンガ建物の再生が進んでいます。東京の顔として復元再生された東京駅舎、港湾倉庫を商業施設にした横浜赤レンガ倉庫、ホテルへ改装される旧奈良監獄など、税金を極力使わず民間資本の活用で再生させるケースも増えています。

被爆建物の保存/解体をめぐる問題は、広島が長年に渡り抱えてきた課題の一つです。原爆ドームも、かつては解体論が強くて行政は保存に消極的であり、世論の後押しで保存が決まるのに20年もの年月を要し、その間は放置されていたという経緯を忘れるべきではないでしょう。前述の通り、残り僅かとなった被爆建物をどう扱うかについても被服支廠倉庫の動向が大きな影響を与えることになります。
被服支廠倉庫について、アーキウォーク広島では日本建築学会による学術調査(2014年)をアレンジして以来、見学会やシンポジウムを継続的に開催しており、建物の来歴や特徴を広く知っていただく活動を展開しています。


Present Circumstances
Hiroshima Prefecture owns three of the four warehouses; the national government owns the other one. The buildings have not been used since they were closed in the 1990s. As they are not earthquake-resistant, the buildings are unsafe, and a seismic retrofit would be costly. So, in December 2019, Hiroshima Prefecture announced a plan to dismantle two of the buildings. The mayor of Hiroshima and many citizens opposed this plan, saying that these are important buildings which survived the atomic bombing and that they must not be destroyed without due considerations. As of June 2020, no concrete plan has been formulated.
In Japan, many people tend to regard historic buildings as old and worthless. In Hiroshima, many buildings that survived the atomic bombing have been torn down for financial reasons. The dispute over these warehouses will have a major impact on Hiroshima.







特設サイト
旧陸軍被服支廠倉庫に関する情報はこちらにまとめています。
紹介冊子のダウンロード
このページに記載した内容の冊子です。PDF 8.5MB
倉庫内外のパノラマ画像
倉庫内外のパノラマ画像をご覧頂けます。右の画像をクリックしてみてください。

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パノラマ画像1(外観)

パノラマ画像2(3階室内)
見学ガイド
■交通 広島バス(赤バス)31号線「出汐二丁目」バス停から徒歩3分。
広電 路面電車「皆実町二丁目」電停から徒歩15分。
■周辺地図 マピオン地図
■見学可能時間 外周道路より外観のみ常時見学できますが、周辺は住宅や学校ですので、ご迷惑とならないよう配慮をお願いします。
建物データ
■所在地 広島市南区出汐
■設計 不詳
■竣工 1913年
■構造 レンガ造+RC造
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